半藤一利と戸髙一成の名言

日本海海戦かく勝てり

「秋山真之は名参謀ではなく丁字戦法もなかった!」という衝撃的な帯が踊るPHP文庫『日本海海戦かく勝てり日本海海戦かく勝てり』から、現代随一の歴史小説作家である半藤一利氏と昭和史研究家である戸髙一成氏の名言を紹介。

歴史をとことんまで研究し尽くした両者だからこその名言の数々は、驚くべき新事実の数々。このページだけではなく、ぜひ本編『日本海海戦かく勝てり日本海海戦かく勝てり』もご覧になっていただきたい!

半藤一利の名言1・・・文庫16ページ

半藤一利の名言「日本はロシアから完全にコケにされたね。二五年間の租借というんだけど、これはもう永久に借りとくぜってなもんでね、要するに租借という名の領土化です」

半藤一利先生が語る日露戦争勃発の原因。日清戦争によって清国から割譲させた遼東半島であるが、ロシア・フランス・ドイツからの抗議、いわゆる三国干渉によって返還せざるをえなくなった。しかしロシアは、日本から返還させた遼東半島をロシア自らが租借してしまい、軍事基地化してしまう。清国に勝利したにもかかわらず、日本にはロシアの恐怖が迫ってくるのであった。

戸髙一成の名言1・・・文庫17ページ

戸髙一成の名言「ロシアとの約束は駄目なんですよ。すぐにひっくり返る。そんなもの止めたほうがよいと言いますね」

ロシアは信用できないという山県有朋や小村寿太郎の意見を代弁した戸髙一成先生の名言。ロシアが信用できないってことは、この後、第二次世界大戦でイヤというほどに味わわされることになり、その時に奪取された南樺太と千島列島はいまだに返還されていない。

半藤一利の名言2・・・文庫20ページ

半藤一利の名言「日露交渉は太平洋戦争直前の日米交渉のような趣があったね。どんなことかというと、交渉は翌年の二月まで続くのだけど、ロシア側のスローモーぶりは、まさにアメリカも同じ。(中略)ロシアはハル・ノートみたいなものを突きつけてきた」

日本は、当時世界最強国であったイギリスと日英同盟を締結。しかしロシアは逆に態度を硬化し、満州や遼東半島にさらなる兵力を増強する結果に。そこで日本はロシアと交渉を重ねるも、ロシアは日本にとって受け入れがたい要求に終始する。つまり、文句があるなら一戦交えようじゃないかということ。当時は現代よりも、段違いに物騒な世の中だったのだ。

半藤一利の名言3・・・文庫21ページ

半藤一利の名言「当時の日本は近衛師団を加えても一三個師団しかない。これも日清戦争のあと臥薪嘗胆で歯を食いしばって六個師団を増やしてその程度です。ロシアはなんと七二個師団もある。二五万対二〇〇万ですな」

日本は、御前会議を4度も開き、開戦やむなしと決意するも、ロシアとの戦力差は歴然。ざっと計算しただけでも陸軍は8倍、海軍は2倍の差があった。これだけの差があって戦争に踏み切るには無謀そのもののため、伊藤博文、山県有朋、桂太郎といった面々も二の足、三の足を踏んでしまったようだ。二五万対二〇〇万じゃあ、そりゃそうだ。

戸髙一成の名言2・・・文庫25ページ

戸髙一成の名言「東郷(平八郎)が明治天皇に拝謁するときがきたんだけど、そのとき天皇は『きっと勝てるか』って、ずいぶん乱暴な質問をしますね。(中略)東郷が偉いと思うのは『きっと勝ちます』と即答したことですよ」

連合艦隊司令長官には、山本権兵衛の推薦で、当時舞鶴鎮守府司令長官だった東郷平八郎が選任される。順当であれば日高壮之丞が連合艦隊司令長官の座につくはずであったが、日高の独断専行の恐れを危惧しての更迭、または日高の健康状態が芳しくなかったためとも言われる。

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戸髙一成の名言3・・・文庫30ページ

戸髙一成の名言「東郷は、『日露戦争で最も大事な戦闘は黄海海戦だった』と言っているくらいですよ。(中略)黄海海戦で初めて丁字戦法の弱点、欠陥に気づくことができた、だからこそ、日本海海戦では丁字戦法はとらなかった、ということを言外に言っているわけですよ」

連合艦隊は、黄海海戦でロシアの旅順艦隊に対し、練りに練り上げてきた秋山真之参謀が考案したといわれる丁字戦法で迎い撃つ。んが、そもそも戦う気がほとんどなかった旅順艦隊は、敵前大回頭中の連合艦隊を尻目に、逃走を開始。なんと丁字戦法は、戦う気がない相手に対してはまったく意味のない戦法であることが発覚。なんてこった!

半藤一利の名言4・・・文庫44ページ

半藤一利の名言「明治三八年一月、ようやく二〇三高地を取ってみたはよかったが、あけてびっくり、ほとんどの軍艦が沈んでいたんだね」

日露戦争、陸軍の戦闘における最大級の激戦となった旅順攻防戦。そのなかでも二〇三高地は海軍の要請もあり乃木希典大将率いる第三軍が死力を尽くし奪取したものの、旅順艦隊は第三軍の二八センチ榴弾砲を中心とした砲弾を浴び、すでに全滅していたのだった・・・・・・。しかしながら、永久要塞といわれた旅順をほぼ正攻法の繰り返しで攻略した第三軍はもっと褒め称えられてもいい。

半藤一利の名言5・・・文庫89ページ

半藤一利の名言「極端な言い方をすれば、東郷長官が密封命令の開封を一日延ばしますと言った瞬間に、勝負あったんだよな」

バルチック艦隊はベトナムのバン・フォン湾を出港してから遅くとも1905年5月23日までに、連合艦隊が待つ対馬海峡周辺までやってくるはずであったが、5月23日を迎えても来ず、翌24日、25日を迎えてもバルチック艦隊が巨影を見せることはなかった。当然、秋山真之以下、参謀たちの狼狽は激しく、即刻、津軽海峡へと向かうべきだという意見が支配するようになる。しかし、第二艦隊参謀長の藤井較一と島村速雄の意見を東郷が受け入れ、津軽海峡へ北上する命令を一日順延することに決定。この決定が結果的にバルチック艦隊と決戦・日本海海戦へとつながったのだった。

戸髙一成の名言4・・・文庫97ページ

戸髙一成の名言「戦後にロシア海軍軍令部がつくった極秘戦史のなかに、日本海に入る直前のロジェストウェンスキー長官の訓示があります。これはもう悲壮なもので、一番艦沈めば二番艦これに替わるべし、二番艦沈めばこれを乗り越えて進めと、もう大損害覚悟の訓示を垂れて、対馬にやって来ますね」

連合艦隊の参謀たちが大騒ぎしていた頃、バルチック艦隊司令長官のロジェストウェンスキーはそもそも津軽海峡ルートを通る気など毛頭なく、対馬海峡を堂々と中央突破し、連合艦隊と一戦交える覚悟を決めていたのだった。“急がば回れ”ですなホントに。

戸髙一成の名言5・・・文庫101ページ

戸髙一成の名言「なぜ秋山はそれ(本日天気晴朗なれども波高し)をつけ加えたかというと、低気圧は去ったけれども波はまだ高い。こんなに波が高くては、艦隊決戦の第一陣として水雷艇隊を出動させるつもりだったが、小舟には辛いなあという気持が働いていたと思います」

秋山真之の名文「本日天気晴朗なれども波高し」の本来の意味は、水雷艇隊による強襲作戦は実行できないことの示唆であった。数百トンクラスの水雷艇は波が高いともまれてしまい、攻撃ができないばかりか、沈没の恐れすらあるのだ。第一の矢を摘まれた連合艦隊は、バルチック艦隊と真っ向からの正面衝突で雌雄を決することになる。

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戸髙一成の名言6・・・文庫104ページ

戸髙一成の名言「連繋機雷を敵艦隊の前面にばら撒いて、敵艦隊の隊形が崩れたところを第一艦隊(戦艦中心の艦隊)と第二艦隊(装甲巡洋艦中心の艦隊)が襲いかかってめった打ちにしようというプランです。黄海海戦で丁字戦法に失敗したあと、こんな作戦を秋山参謀は考えた」

これぞ智謀湧くが如し秋山真之参謀の秘策・連繋機雷作戦! 連繋機雷とは機雷と機雷をロープで繋いだ物で、船首にロープが引っかかれば自然と機雷が集まり船を大破してしまうという、単純であるが実に恐ろしい兵器なのだ。「本日天気晴朗なれども波高し」とはつまり、連繋機雷を撒く役の水雷艇の出撃が難しく、せっかくの作戦が実行できないということを示唆しているんだと戸髙氏は唱える。なるほど~。これこそがこの『日本海海戦かく勝てり日本海海戦かく勝てり』で言いたかった事なのである。

半藤一利の名言6・・・文庫106ページ

半藤一利の名言「私が連繋機雷のことを書いて、ついでに『天気晴朗なれども波高し』は秋山参謀の苦悩の表現だった、何も威勢のいいものではなかった、などと書いたら、東郷神社の機関誌『東郷』でこてんぱんにやっつけられましたよ。何回も雑誌が送られて来ました」

現代における歴史作家の大家である半藤先生ですら怒られてしまうという、連繋機雷の解釈。確かに連繋機雷のことは公式な文献のどこにも書いていないわけであるし、確証がない以上、半藤先生や戸髙氏の意見もまた類推の域を出ないわけである。

戸髙一成の名言7・・・文庫110ページ

戸髙一成の名言「日本海海戦を描いた本はゴマンとありますが、この奇襲隊の話ぐらい徹底して消し去られた話というのもないですね。これを秘密にしたいばっかりに、やりもしなかった丁字戦法をもってきたんです」

水雷艇による連繋機雷の奇襲作戦は、高波により中止となったが、海軍はこの連繋機雷を軍機扱いとし、一貫して秘密にしてきたようだ。証拠に、海軍兵学校出身者に連繋機雷のことを尋ねても、総じて口が重たくなるという。それほどまでに連繋機雷は、秘匿も秘匿、超秘匿にされてきたのだ。

戸髙一成の名言8・・・文庫118ページ

戸髙一成の名言「装甲巡洋艦一隻で小さな駆逐艦と水雷艇をぞろぞろ率いていて、それで戦艦の二、三隻を沈める気でいた、冗談ではなく八代(六郎)はほんとにそう思っていたでしょうよ。鼻息が荒いようにみえますが、それぐらいの能力を持っていたんですよ」

連繋機雷作戦を指揮するは後の海軍大将にして風流提督などとも言われた八代六郎。作戦が実施できなかった無念は相当なものだったようで、海軍の広報を担った小笠原長生に上記内容を綴った手紙を差し出している。それほどまでに連繋機雷の威力は甚だしいものがあったようだ。

半藤一利の名言7・・・文庫126ページ

半藤一利の名言「当時甲板士官だった人から聞いたんだけど、メガホンで信号文のまま『皇国の興廃云々』って艦内に伝えても、とくに兵隊たちにとってはチンプンカンプンだったらしく、『わからんぞ』という声がずいぶん聞こえてきたそうだ。そこで砕いて言ったというんですよ、『今日こそ頑張らんとお国が滅びる、みんなしっかりやれ』と」

戸髙氏も絶賛した、半藤先生が過去にインタビューした日露戦争に参戦した士官がZ旗を訳した名言。旗艦三笠にZ旗が翻り各艦船に「皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ」と知らされるも、若い水兵たちには「コウコクノコウハイ?」状態だったよう。優れた上官というのは、説明上手でなきゃならないのですね。

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戸髙一成の名言9・・・文庫145ページ

戸髙一成の名言「日本の砲弾には不発弾というものがなかったのではないですか。それこそマストに当たろうが何に当たろうがすぐに大爆発して、もうロシアの艦はメチャクチャになった。(中略)味方にとっても危ないというのだから、とても一〇〇点満点は差し上げられない兵器ですね、伊集院信管は」

連合艦隊が使用する砲弾には下瀬火薬と伊集院信管が採用されていたのであるが、どちらもとにかく鋭敏なため、自爆事故があとを絶たなかったといわれる。特に伊集院信管は危険であり、あの東郷司令長官ですら大本営に意見をしたほどで、いざとなれば砲弾から火薬と信管を抜き、代わりに砂を詰めたソリッド弾でバルチック艦隊とあいまみえる覚悟であったという。

半藤一利の名言8・・・文庫152ページ

半藤一利の名言「おもしろいことに、この第二艦隊はバルチック艦隊の頭を押さえることに成功したから、期せずして丁字戦法になったんだよ(笑)」

有名な東郷ターン(敵前大回頭)後、バルチック艦隊との併行戦に持ち込んだ連合艦隊であるが、バルチック艦隊は隙を突いて逃走を開始。連合艦隊は再びターンを開始するも、バルチック艦隊はさらに逆方向へと舵を取る。第二艦隊司令長官の上村彦之丞はいち早くその動きを察し、とっさの判断(独断専行)でバルチック艦隊の頭を押さえ砲撃することに成功。いざという時の指揮官の独断専行は認められているとはいえ、この上村の判断は見事の一言!

戸髙一成の名言10・・・文庫154ページ

戸髙一成の名言「もう泥んこの叩き合いですね」

   

連合艦隊が華麗なる勝利をおさめた思われがちな日本海海戦であるが、沈没は無かったというだけで実際は連合艦隊の損傷も激しい、壊し合い潰し合いであった。戦後、東郷が“天佑神助”を強調したのは、連合艦隊とバルチック艦隊の差はわずかであり、場合によっては連合艦隊が敗北していた可能性もあったことを、東郷自身が誰よりも感じていたからなのであろう。

半藤一利の名言9・・・文庫168ページ

半藤一利の名言「本当に五月二七日夜の水雷戦隊の猛襲につぐ猛襲はすごいねえ。これはもういくら褒めても褒め足らない。戦艦二隻、装甲巡洋艦二隻撃沈でしょう。夜が明けてからは敵の大将を捕まえるしね」

連繋機雷の作戦を実行できなかった駆逐艦と水雷艇の部隊は、連合艦隊とバルチック艦隊の戦いを遠巻きに見ていたが、日が暮れると連合艦隊に替わり、夜影に紛れてバルチック艦隊に魚雷攻撃。連繋機雷も炸裂し、上記名言の通りの成果を上げる。敵方司令長官・ロジェストウェンスキーも捕まえてしまったのだから、これはもう大戦果といっても過言ではない。

戸髙一成の名言11・・・文庫171ページ

戸髙一成の名言「そのあとロシア兵たちはおとなしくなって、テキパキと言われたとおりに仕事をしたそうです。そりゃあ、スパナで殴られたら、たたじゃあすまないからなあ」

連合艦隊とバルチック艦隊が一戦交えた翌朝、第三太平洋艦隊のネボガドフ少将は戦わずして降伏。ロシアの戦艦は佐世保へと移動させられることとなったが、ロシア兵は佐世保までの操船を拒否。そこで、ある日本兵がスパナでロシア兵の頭を引っぱたいたところおとなしく指示を聞くようになったとか。国際法上正しいかははなはだ疑問ではあるが、まあ、戦争中のことだから・・・・・・。ちなみにネボガドフ少将は帰国後、軍事裁判で有罪となったそう。そりゃそうだ。

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半藤一利の名言10・・・文庫183ページ

半藤一利の名言「軍令部や山本が使いやすいように東郷をもってきたという意味もあるかもしれないが、参謀の能力を最大限発揮させるための人事ではなかったかと」

半藤先生は日本的指揮官の典型として泰然自若とした人物が好まれると分析。日清戦争においても伊東祐亨という茫洋としたタイプが連合艦隊司令官となりうまくいったと解説する。しかし太平洋戦争ともなると、戦争のスケールがあまりに違いすぎ、泰然自若としているだけの司令官ではダメだったと南雲忠一中将(戦時中)を失敗例として挙げる。

戸髙一成の名言12・・・文庫197ページ

戸髙一成の名言「第一次世界大戦のときの戦訓を新見政一さんが盛んに研究して、これからの戦争は輸送が大事だとか、そのための艦隊が必要だとかを学んで山のような研究レポートを書いて出している(中略)太平洋戦争は輸送が最大のキーポイントだったけど、結局、その戦訓はまったく活かされないままでしたね」

海軍随一の戦史研究家だった新見政一中将は、第一次世界大戦の研究から太平洋戦争の推移を見事に予見していたのだが、新見中将は海軍内で異端児扱いされており、新見中将が説く海上交通線防御の重要性を真に受ける者はいなかった。結果、太平洋の島々では武器弾薬、兵糧が枯渇し、多くの戦死者と餓死者を出すこととなった。

半藤一利の名言11・・・文庫223ページ

半藤一利の名言「横浜には伊藤博文が出迎えたが、新橋駅では桂(太郎)首相と山本(権兵衛)海軍大臣が出迎えてね、列車を降りた小村の両脇に身体をピタッとくっつけてスクラムを組んで、プラットホームから駅前に用意してあった馬車まで歩いたっていうんだな。爆弾投げられたら、あるいは銃弾で撃たれても死なばもろともという覚悟だね」

日露戦争の戦争講和の全権を託された小村寿太郎は、賠償金なし、南樺太の割譲だけという厳しい内容でなんとかロシアとポーツマス条約を結び戦争を終結させる。しかし、臥薪嘗胆で重税に苦しんできた国民の多くは納得することができず、国内は大騒ぎとなってしまう。これ以上戦争を続けることができないことを秘匿にしていた政府は、最大限日本に有利な内容で講和に持ち込んだ小村を死なせてはならずと、首相以下、国家元帥たちが身を呈して暴徒たちから小村を守ったのであった。

半藤一利の名言12・・・文庫227ページ

半藤一利の名言「日本海海戦というのはまさに日本が近代国家を造って最高に昇りつめた最も輝けるときだったわけですよ。それも明治維新で国家建設をスタートしてほぼ四〇年後のゴールでしたがね。そしてそれは四〇年後の滅びのスタートでもあったんですね」

半藤先生が語る日本40年周期説。日本海海戦後、40年で日本は太平洋戦争に敗北し、どん底を見ることに。そしてその40年後、1985年のプラザ合意によりバブル経済が始まり、東南アジア諸国も巻き込むほどの狂った発展を見せることとなる。となると2025年は40年周期説でいえば滅びの周期であり、日本国がどうなってしまうのか・・・・・・またも敗戦のどん底になってしまうのかもしれない。以上、『日本海海戦かく勝てり日本海海戦かく勝てり』から半藤一利先生と戸髙一成の名言。完。

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