アントニオ猪木の名言1

アントニオ猪木の名言のイメージ

1943年生まれ、横浜市出身。1960年、力道山率いる日本プロレスに入門し、同年デビュー。同期には生涯のライバルとなるジャイアント馬場がいる。ショースタイルのアメリカンプロレスよりも、サブミッションレスリングを基本としたヨーロピアンスタイルの試合を行い、プロレスこそ最強の格闘技と位置づけ「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」と標榜する。その先鋭的なレスリングスタイルは多くの若者たちに影響を与え、全国に“猪木信者”が続出する。そして、実際に最強を目指す若者がアントニオ猪木率いる新日本プロレスに集い、その後の日本の格闘技界の礎を築くこととなる。

アントニオ猪木がいかに偉大なプロレスラーであるかがわかる名言の数々を、アントニオ猪木著『アントニオ猪木自伝』から引用したのがこのページ。後世に残したいアントニオ猪木の名言に触れることで、彼の偉業を再確認していただきたい。プロレスラーとして生き続けるアントニオ猪木の姿勢に痺れること確実だ。

アントニオ猪木の名言1『アントニオ猪木自伝』・15ページ

アントニオ猪木の名言「祖父はよく私たちに『乞食になっても世界一の乞食になれ』と言った。世界一の乞食と言われても、どんな乞食なのかよくわからなかったが、言わんとすることは何となく伝わった」

アントニオ猪木の、スケールが大きいんだか小さいんだかよくわからない名言。とにかく男ならどんな仕事をしても世界一になってみせろということらしい。猪木はこの言葉がよっぽど心に残ったのか、乞食の格好をして人前に登場したり、ホームレスに炊き出ししたりしている。いいんだか悪いんだか・・・。

アントニオ猪木の名言2『アントニオ猪木自伝』・31ページ

アントニオ猪木の名言「馬鹿ばかしい話だが、兄貴たちより早く食卓につき、兄貴たちの分が残らないようにひたすら大食いするのだ」

少年・猪木寛至の兄たちへの復讐法。中学2年の頃には身長が182cmもあり、毎日砲丸投げに明け暮れていた寛至少年は、当時いくらでも飯が食え、兄たちに腹を立てるとこうやって仕返しをしていたそうな。ノンキが一番!な少年時代は微笑ましいエピソードが多数だ。

アントニオ猪木の名言3『アントニオ猪木自伝』・51ページ

アントニオ猪木の名言「その頃着ていたのは、ゴワゴワした砂糖の袋を姉が縫い合わせてくれた自家製のシャツだ。一日の労働を終えて、家に帰ってシャツを脱ぐと、冗談ではなく、シャツが身体の形に立つのである。染み込んだ汗の塩分が固まっているのだ」

猪木家は夢を抱いてブラジルに移民することになった。しかし、ブラジルで待っていたのは奴隷労働であり、コーヒー農園で朝5時から夜の5時まで12時間働かされ、農園を逃げようものなら容赦なく撃ち殺される環境だったのだ。14歳にして壮絶な人生を送ることになった猪木少年・・・・・・笑えない!

アントニオ猪木の名言4『アントニオ猪木自伝』・76ページ

アントニオ猪木の名言「私と馬場は最初からライバル関係だったと言われるが、それは後々のことで、当時一番仲がよかったのは馬場だった。(中略)とにかく、私と馬場は、あの頃はいい関係だった」

常に比較され続けたアントニオ猪木とジャイアント馬場であったが、入門当初はお互い仲がよく、猪木にとっては頼れる兄貴的存在だったのだ。だからお互い一国一城の主となり、表向きは対立していても、一線を超えるようなことがなかったといえる。実はお互い認め合った関係なのね。

アントニオ猪木の名言5『アントニオ猪木自伝』・77ページ

アントニオ猪木の名言「ブラジル時代は自分を慰めることも知らないので、もう、ただただやたらに夢精していたのである。だから女の『お』の字も知らない。
初体験は十七歳のとき。日本に帰ってきてからだ。
あれはデビュー前、熊本に地方巡業に行ったとき、大木金太郎に連れられて遊び場に行って、無事童貞を捨てた。大木さんには誠に感謝している」

“ドンカン”と呼ばれるほどに何事にも疎かった猪木寛至少年は、年頃になっても性的な知識がまったくなく、ふいに大きくなってしまう自分のムスコに悩んでいたという。それにしても、先輩が後輩の童貞を捨てさせてやるなんて、古から続く良き日本の風習なのだ。

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アントニオ猪木の名言6『アントニオ猪木自伝』・97ページ

アントニオ猪木の名言「もし力道山のプロレスの遺伝子があるとすれば、それは明らかにジャイアント馬場ではなく、この私に受け継がれている。ふたりのプロレスを見比べればわかるだろう。力道山を『力さん』と呼び『一回も殴られたことがない』というのが自慢の馬場が受け継いだのは、あの葉巻だけだ」

猪木の馬場に対する凄まじいライバル心ゆえの名言。闘魂を受け継いだのは間違いなく猪木であろうが、そもそも馬場はアメリカンプロレスを目指したわけで、比べるのはどうかと思うのであるが・・・・・・何十年経っても、猪木の馬場に対する嫉妬心は変わらないのね。

アントニオ猪木の名言7『アントニオ猪木自伝』・109ページ

アントニオ猪木の名言「(人参ジュースを)私はジョッキで六杯飲んだ。そうしたら---翌日から異変が起きたのである。ムスコが元気になってしまい、三日三晩立ちっぱなしになってしまったのだ」

これがアントン人参ジュース伝説。アメリカ遠征中、モンゴリアン・ストンパーに人参ジュースをご馳走になった結果、三日三晩勃起し続け、試合中も一向に治まることがなかったという。きっとフォールもまともにできなかったに違いない。皆さん、元気が無い時は人参ジュースをジョッキに六杯です。

アントニオ猪木の名言8『アントニオ猪木自伝』・157ページ

アントニオ猪木の名言「世田谷上野毛の家を道場に改装(中略)レスラーはまずトレーニングしなければならないというのが私の持論だった。(中略)人に誇れる強靭な肉体があってこそのプロレスではないのか」

練習の虫、アントニオ猪木らしい名言。その後、この上野毛の道場から様々なレスラーが誕生し、そのレスラーたちがこの道場で様々な伝説を作ったことは有名な話。この道場がなければ、現在のプロレス界や格闘技界は発展しなかったと断言できる、いわばプロレスや格闘技にとっての聖地なのだ。

アントニオ猪木の名言9『アントニオ猪木自伝』・170ページ

アントニオ猪木の名言「誤解を恐れずに言えば、プロレスはセックスに非常によく似ている。身体を通して互いに刺激し合い、相手の反応を見ながら次の手を打つ。相手もまた様々な技術で応酬してくる。いい相手とセックスすれば自分も高まり、素晴らしい快楽と開放感を得ることが出来る。プロレスの場合、それを支える観客の視線も必要条件になる」

で、猪木にとって最高のセックスが出来た相手が、タイガー・ジェット・シンだったご様子。シンとの抗争は新日本プロレス隆盛のきっかけとなり、一気にメジャー団体へと成長していったのだ。それにしても観客の目も意識したセックスということは、まあ、Vの世界と同じですな。

アントニオ猪木の名言10『アントニオ猪木自伝』・183ページ

アントニオ猪木の名言「アリのファイト・マネーは六百万ドルで合意した。当時、日本円にして十八億である。何もかもスケールが違う世界だった」

アントニオ猪木が今のプロレスラーと一線を画しているのは当然で、自分を売り出すための金の掛け方が違うのだ。こういうスケール感が今のプロレスや格闘技界には足りないし、それだけの覚悟を背負えなければ、アントニオ猪木のようなスーパースターにはなれないのである。

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アントニオ猪木の名言11『アントニオ猪木自伝』・189ページ

アントニオ猪木の名言「正々堂々などという甘い世界ではなかったのだ。あらゆる知恵をお互いが絞り合い、とにかく相手を倒せばいいという闘いだった」

猪木は鉄板入りのリングシューズを用意(履かなかった)、アリは4オンスのパンチンググローブにバンテージを石膏で固めて臨んだという。アリの拳の真相は不明であるが、アリの拳は予想以上に硬く、かすっただけで大きなタンコブができるほどの衝撃であったのだ。まあ、拳を石膏で固めていなくても、4オンスのグローブじゃあそりゃ硬い。直撃したら、普通即死レベル。

アントニオ猪木の名言12『アントニオ猪木自伝』・210ページ

アントニオ猪木の名言「今現在も、小川直也のような体力抜群の若い選手とスパーリングしても、私は負けない。私の方がスタミナがあるわけがないのに、若い選手が先にバテてしまう。しつこく粘っているうちに、相手が負けてくれるのだ」

マジかよ、相手は柔道の世界チャンピオンだぜ!?と驚いてしまった猪木の強気な名言。小川は猪木に弟子入りという形でプロレスデビューを果たしたのだが、当時の小川直也の強さは有名で格闘家の菊田早苗を圧倒したという伝説を残している。菊田早苗<小川直也<アントニオ猪木なら、猪木もアブダビコンバットを優勝できたかも!?

アントニオ猪木の名言13『アントニオ猪木自伝』・227ページ

アントニオ猪木の名言「アントン・グループなどと称して事業家を気取り、これまで様々な物に手を出してきたが、結局プロレス以外は全滅に近い。はっきり言って、私は金儲けが下手だ」

本人も気が付いていたのねと、苦笑するしかない猪木の名言。結局、アントン・ハイセルで5億、アントン・トレーディングで1億の借金を作っただけで事業を撤退(実際の借金はそれ以上とも)。しかし格闘技団体の経営手腕だけは確かなようで、いま日本で大会場を使った格闘技を開催しているのは猪木率いるIGFだけなのだ。その道だけに専念さえしていれば・・・・・・。

アントニオ猪木の名言14『アントニオ猪木自伝』・254ページ

アントニオ猪木の名言「私の浮気は日本中にバレてしまった。言い訳のしようもない。私は丸坊主になって『男のケジメ』をつけた。あのアンドレから世界ではじめてギブアップを取った試合の写真を見ると、私はくりくり坊主である」

さすが、猪木、浮気ネタをオチまで付けた見事な名言である。猪木の放漫経営により、選手たちは次々と造反し、新日本プロレスを離脱。業績が落ち込み、ヤケになった猪木は女と浮気してしまったのだ。それでもまだ、倍賞美津子に愛があったといってもねえ・・・・・・ねえ?

アントニオ猪木の名言15『アントニオ猪木自伝』・260ページ

アントニオ猪木の名言「何だか無性に泣けてきた。涙が溢れだして止まらないのだ。(中略)そのときは本当に、もう死んでもかまわないと思っていた。こんな命なんて惜しくない。マサに殺されるなら、本望だ」

会社は左前になり、プロレスラーでは絶対に返せない借金を負い、女房には愛想を尽かされ出て行かれる、さすがの猪木会長もこの時期は死にたくなっていたご様子。マサ斎藤との巌流島の戦いは、猪木が死地を求めてのことだったのだ。こういう経緯を知ると「元気が一番!」って名言ね~。

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アントニオ猪木の名言16『アントニオ猪木自伝』・278ページ

アントニオ猪木の名言「バグダーノフはウォッカのガロン瓶を持って来ていた。つまみはロシア名産の豚肉のオイル漬けである。(中略)ソ連では、飲まない男は信用されない。グラスに注がれたら、すぐさま一気飲みをしなければならない。バグダーノフは将軍だけあって酒が強かった。こうなったら酒のデスマッチである」

新日本プロレス、初の東京ドーム興行。目玉はソ連のレスリング選手の参戦だ。しかし、興行前に猪木とソ連一行による大宴会が催され、猪木は飲み過ぎで肝心の試合は二日酔いだったという。そのせいか、異種格闘技戦で初めてのKO負けを喫したというのだからトンパチすぎる。

アントニオ猪木の名言17『アントニオ猪木自伝』・300ページ

アントニオ猪木の名言「イラクが正しいと言っているのではない。しかしアメリカがかざす正義の旗に、尻尾を振って付いて行けばいいというのでは、日本はナメられるだけではないか。自分で調べ、考えて判断することのどこが悪いというのか」

1990年、湾岸戦争が勃発すると、在イラク邦人41名が事実上の人質となってしまった。いつまでも解決策が打ち出せない外務省を尻目に、猪木は平和の祭典をぶち上げ、自費で飛行機をチャーターし在イラク邦人全員を解放することに成功。猪木のこの、人知を超えたパワーには、さぞや外務省の役人もビビッたんだろうなあ。行動力ありすぎ!

アントニオ猪木の名言18『アントニオ猪木自伝』・326ページ

アントニオ猪木の名言「もし検事の出世欲のために陥れられ、抹殺されるのなら、彼を殺してやろうと思った。取り調べは一対一だったから、私には簡単なことだ」

右腕であった新間 寿の謀反に遭い、猪木は身に覚えのないことで大スキャンダルに発展。ホテルで三日間、検事の取り調べを受けることになったのだが、殺気漂う猪木を取り調べた検事は恐怖を覚えたに違いない。不起訴にはなったが、思わぬところでキラー猪木が出現した瞬間だった。

アントニオ猪木の名言19『アントニオ猪木自伝』・327ページ

アントニオ猪木の名言「ピストル疑惑というのもあった。私が友人に頼んでピストルを二十八丁密輸入しようとしたというのだ。それも非合法のガン・クラブを作るためだという。(中略)私がピストル嫌いなのは、知人たちは皆知っている。第一、私はその気になれば、素手でいつでも人を殺せるのだから」

新間 寿のことはよっぽど腹に据えかねているようで(しかし後に猪木は新間と和解するのだか、不思議な人である)、再び、キラー猪木が再降臨。しかし、ウィキペディアには『リングス関係者が、前田日明に「猪木さんが大変なことになってますよ!」と伝えたら「何言ってるんだ、いつものことや!そのうち仲直りするさ!」と全く取り合わなかった』との記述があり、さすが日明兄さん!なのであった。

アントニオ猪木の名言20『アントニオ猪木自伝』・344ページ

アントニオ猪木の名言「道場を建てるミネアポリスは何もない土地だ。遊ぶとろこがないから、練習に打ち込める。冬になるとやることがないから、若者はひたすらジムに集まり、身体を鍛えている。町を歩くと、ゴリラみたいな奴がうようよしている。女の子までゴリラみたいな身体をしている」

そんな馬鹿な~と思って、ウィキペディアで調べてみたら、ミネアポリスは恐ろしく多くのプロレスラーや格闘家を輩出していることが判明。確かにゴリラ級の男どもが数多くいる土地であることがわかったが、女の子もゴリラというのは・・・・・・。どこかのテレビで検証をしてほしいのだ。

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アントニオ猪木の名言21『アントニオ猪木自伝』・351ページ

アントニオ猪木の名言「そういえばリングの上で、前田(日明)は『引退後は自分もロスに行って、刀鍛冶になります』と言っていた。どうも若い者の考えることはよくわからない」

やっぱりイノキイズム一番の後継者は前田日明だと、つくづく実感させられた猪木の名言。誰かが猪木や前田のことを「ノンキが一番!」と揶揄ったが、猪木も前田も常人にはわからない思考回路を持ち合わせているようだ。だから二人に憧れるんだよなあ。

アントニオ猪木の名言22『アントニオ猪木自伝』・360ページ

アントニオ猪木の名言「橋本(真也)は、小川(直也)戦でのショックで、やっと体質改善するつもりになり、二十キロ以上体重を落とした。そのとき不足しているミネラルを調べるため、橋本の毛髪をシカゴ大学に送ったところ、信じられない数値が出たのである。重金属をはじめとする有害物質の量が、検査出来ないほど大量に検出されたのだ。(中略)橋本はキレる寸前だった」

アントニオ猪木自伝』出版当時は、ファンは笑い話ぐらいにしか思っていなかったが、その数年後に橋本真也が急逝し、プロレスファン全員がこの猪木の名言を思い出したのだった。猪木は、橋本の体質改善のために、ファスティングダイエットやとうふパンをすすめていたことを思い出す。これにて、『アントニオ猪木自伝』から引用したアントニオ猪木の名言は完。まだ読んでいない方は、ぜひご一読することをおすすめするのだ。単純におもしろい一冊だと思う。

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