アントニオ猪木の名言2

1976年のアントニオ猪木_アントニオ猪木の名言2イメージ

アントニオ猪木の名著「アントニオ猪木自伝」から引用した「アントニオ猪木の名言1」を紹介したことに続き、このページでは柳澤 健氏の伝説の名著「1976年のアントニオ猪木」から引用した名言の数々をお届け。1976年はアントニオ猪木にとって2月にウイリアム・ルスカ、6月にモハメド・アリ、10月にパク・ソンナン、12月にアクラム・ペールワンといった重要な試合の数々が行われ、この1976年に生まれた価値観こそが、その後の日本プロレス界のスタンダードとなっていくのである。

著者の柳澤氏は、エポックメイキングとなったこれらの試合の真相を探るため、世界各地に試合の当事者を訪ね取材を重ね「1976年のアントニオ猪木」を上梓。この名著を読まずしてプロレスファンは語れないのだ!

アントニオ猪木の名言1『1976年のアントニオ猪木』・10ページ

アントニオ猪木の名言「1976年のアントニオ猪木はあらゆるものを破壊しつつ暴走した。猪木は狂気の中にいたのだ」

日本プロレス界の看板スターだったアントニオ猪木は、1976年に極めて異常な試合を4試合行い、「1976年のアントニオ猪木」はそれらの試合を読み解く解説書なのだ。1976年にアントニオ猪木が行った試合があったから、2000年代に隆盛を極めたプロ格闘技文化が日本に生まれたといえる。

アントニオ猪木の名言2『1976年のアントニオ猪木』・17ページ

アントニオ猪木の名言「猪木は最初から馬場に差をつけられた。寮住まいの猪木は力道山の付き人として身の回りの世話に追われたが、馬場は最初からアパート住まいを許された」

2mを超える巨躯ながらもアスリートとして一線級で活躍し続けてきた馬場は、超好待遇でプロレスに入門。猪木にとって馬場はコンプレックスであり、いつも立ちはだかる壁であった。猪木は馬場を越えたいがために、1976年、極めて特殊な試合を幾度も行うこととなった。

アントニオ猪木の名言3『1976年のアントニオ猪木』・30ページ

アントニオ猪木の名言「アントニオ猪木は日本のトップレスラーとして初めて、グラウンド・レスリングのエキスパートになった」

プロレスラーの格としてジャイアント馬場に敵わなかった猪木は、レスリング力を鍛えることで馬場に勝とうと、新人のために催されていたカール・ゴッチのプロレス教室に入門する。猪木はゴッチが舌を巻くほどのトレーニングに励み、リアルな実力を身に付けたのだった。

アントニオ猪木の名言4『1976年のアントニオ猪木』・46ページ

アントニオ猪木の名言「やらせではない。契約選手であるシンを告訴することはできないが、騒ぎを起こしたことは幾重にもお詫びする」

かの有名な新宿・伊勢丹事件。新日本プロレスはアメリカから一流レスラーを呼べず経営的にあえでいたが、猪木はタイガー・ジェット・シンを狂気のヒールレスラーに仕立てあげたことで、興行は大成功。著者の柳澤健は「神風は吹いた」と表現。この時から猪木の馬場への猛攻が始まる。

アントニオ猪木の名言5『1976年のアントニオ猪木』・47ページ

アントニオ猪木の名言「猪木さんは自分自身のノドをカミソリで切っているんです。すると、シンの指が首の中に潜り込んでいくように見える。『高橋、俺は今日、ここ(首)で仕事するから。あっち(シン)にも言っておいてくれ』」

猪木はタイガー・ジェット・シンのコブラクローを際立たせるため、自らカミソリで首を切るという演出を実行する。この演出には観客もテレビ視聴者も度肝を抜かれ、猪木とシンのプロレスは興奮の坩堝と化し、いままでのプロレスではありえなかったほどの熱狂をもたらしたのだった。

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アントニオ猪木の名言6『1976年のアントニオ猪木』・76ページ

アントニオ猪木の名言「アメリカの一流レスラーを猪木に渡さないために馬場が払ってきた努力や配慮、支払ってきたギャランティは、私たちの想像の遥か上を行くに違いない」

攻勢をかける猪木に対し、馬場はNWAの権力で対抗。馬場は超一流のジャック・ブリスコを破りNWA王者となることで、自分は世界のプロレス王なのだと内外に誇示したのだった。そのうえ大木金太郎の引き抜きなどで猪木を揺さぶった。馬場も馬場なのである。

アントニオ猪木の名言7『1976年のアントニオ猪木』・115ページ

アントニオ猪木の名言「オリンピックの金メダル獲得が社会的成功につながることは、ヘーシンクの例を見ても明らかだった。だからこそルスカは娼婦の妻に経済的に依存しつつ、オリンピックで優勝するために自分の生活のすべてを柔道に捧げてきたのだ」

しかし、娼婦のヒモのレッテルを貼られたウィリアム・ルスカには、勲章はおろか、道場運営やCM出演の話などはこなかった。悲運にくれるルスカは、モハメド・アリへの挑戦をぶち上げたアントニオ猪木のことを知り、柔道金メダリストの誇りを捨てプロレスの試合を行うことを決意する。

アントニオ猪木の名言8『1976年のアントニオ猪木』・129ページ

アントニオ猪木の名言「四方八方から見られつつ、観客の心理を思いのままに操っていくアントニオ猪木はなんと凄いエンターテイナーなのだろう。ルスカは心中舌を巻いた」

猪木vsルスカは熱戦となり、日本武道館に集まった1万人を超える観客は大熱狂。ルスカはプロレスの試合を行うことに引け目を感じていたが、プロレスはルスカの想像だにしなかった奥深い格闘ショーであった。そして、プロレスの大天才である猪木との試合は、ルスカも感動する一戦となったのだ。

アントニオ猪木の名言9『1976年のアントニオ猪木』・134ページ

アントニオ猪木の名言「ルスカは(中略)プロレスの真の目的が観客の心理操作にあることをついに理解できなかった。猪木との試合が観客を満足させたのは、猪木の天才によるところが大きかったのだ」

猪木vsルスカは本場・アメリカでも評価を受け、ルスカはLA地区のサーキットに遠征。しかし、ルスカは自身の強さを誇張するだけで、対戦相手とともに客を盛り上げることはなかった。そんなダメ・ルスカを相手に熱戦を繰り広げたのだから、猪木は掛け値なしに天才なのである。

アントニオ猪木の名言10『1976年のアントニオ猪木』・146ページ

アントニオ猪木の名言「『猪木ならばホウキと戦っても観客を沸かせることができるだろう』とはゴッチ門下で兄弟子にあたるヒロ・マツダの評だ」

猪木が改めてプロレスファンに衝撃を与えたのは、メモリアル力道山で行われたタッキーこと滝沢秀明戦。猪木はタッキーを6にも7にも引き立たせ、しかも最後はフォール負けをするというサプライズを演出。プロレスマスコミは猪木の天才を絶賛したのだった。

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アントニオ猪木の名言11『1976年のアントニオ猪木』・159ページ

アントニオ猪木の名言「モハメッド・アリは単なるヘビー級のチャンピオンというだけではない。アリは史上最強のボクサーであり、誰よりも優れたスポーツマンであり、世界一有名な人間であり、生ける伝説であり、歴史上の人物であった」

そんなモハメッド・アリことカシアス・クレイを新日本プロレスのリングに上げたアントニオ猪木の手腕は飛び抜けているとしかいいようがなく、日本のプロレス界および格闘技界がモハメッド・アリ以上の格闘家をリングに上げたことなど過去も現在もない。やはり猪木はスケールが異次元なのだ。

アントニオ猪木の名言12『1976年のアントニオ猪木』・181ページ

アントニオ猪木の名言「アリ、ブマイエ!(Ali Bomaye!)」

  

「アリ、殺っちまえ!」をリンガラ語にした「アリ、ブマイエ!」という言葉が、なぜか「イノキ、ボンバイエ!」となってしまったのだから、謎。ちなみに、イノキボンバイエのテーマは、アリから贈られた『アリ・ザ・グレイテスト』の挿入曲で、日本では『炎のファイター』という曲名である。

アントニオ猪木の名言13『1976年のアントニオ猪木』・204ページ

アントニオ猪木の名言「アリは驚愕した。あのペリカン野郎は俺様とリアルファイトをするつもりなのだ」
  

猪木vsアリは、当初は筋書きの決まったエキシビジョンマッチで行われる予定であったが、アリがいざ来日してみると、猪木側からこの試合は真剣勝負で行う旨が伝えられたのだった。猪木はアリに、見事一杯食わせることに成功。アリは契約のため試合を受けるしかなかった。猪木、ズルイな~。

アントニオ猪木の名言14『1976年のアントニオ猪木』・210ページ

アントニオ猪木の名言「アリが猪木と戦う理由は大金を得るためだ。つまりジャイアント馬場が高額のギャラを支払えば、アリは馬場とでも戦うかもしれない、ということだ。18億円も出す以上、アリにそんな何度もレスラーと戦ってもらっては困る。リアルファイトで痛めつければ、アリはもう二度とレスラーとは戦わないだろう。“アリに勝った男”はアントニオ猪木ひとりでなくてはならないのだ」

だから猪木はアリをハメて、当初の予定ではないリアルファイトを仕掛けたのだった。アリの動揺は激しく、試合の一週間前には緊急記者会見を開き猪木に警告を与えたのだが後の祭り。アリもしたたかな猪木と契約したのが間違いであった・・・・・・。実際、痛めつけられたし。

アントニオ猪木の名言15『1976年のアントニオ猪木』・226ページ

アントニオ猪木の名言「試合が始まってみるとこちらが想定していなかった事態が起こった。ご存知のように、猪木が自らキャンパスに座り込んだことだった。猪木の戦法に憤りを感じたことはない。むしろ敬服する。あの戦法は彼がアリに対していかに敬意を払っていたかを表していた」

アリのトレーナーであるアンジェロ・ダンディの談。アリ側は、猪木がタックルで来ることを予想し、その対策を入念に行っていた。しかし猪木は、寝姿勢での攻撃を行うことで、アリのカウンターを見事に防いだのだが、時代を先取りしすぎたこの攻防が観客から受け入れることはなかった。

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アントニオ猪木の名言16『1976年のアントニオ猪木』・236ページ

アントニオ猪木の名言「この試合がボクシングの凡戦でもプロレスの凡戦でもなく、誰も見たのことのない“リアルファイトで行われた異種格闘技戦の凡戦”であったことを忘れてはならない」

猪木vsアリは“世紀の凡戦”のレッテルを貼られてしまい、アントニオ猪木の暗黒史とされてきたが、1993年、アメリカでUFCが開催されると一転、猪木vsアリは再評価されることとなり、一方が立ち姿勢、一方が寝姿勢でいることを“猪木アリ状態”と呼ばれることとなった。20年早かった。

アントニオ猪木の名言17『1976年のアントニオ猪木』・251ページ

アントニオ猪木の名言「残念だが、真に偉大なファイターがどちらであったかははっきりしている」
  

猪木は“世紀の凡戦”と評価されたことに憤り、アリはバンテージを石膏で固めたうえに無茶なルールをゴリ押ししてきたと発表。しかし実際のところは、アリをハメて真剣勝負を行ったが、技術のない猪木はアリと寝て戦うしかなかったということが判明。アリはそんな卑怯者・猪木にも「たいしたヤツだ」と賛辞を送ったのだから、アリこそが真に偉大なファイターなのだ。猪木、面白いなあ。

アントニオ猪木の名言18『1976年のアントニオ猪木』・257~258ページ

アントニオ猪木の名言「偉大なるモハメッド・アリが、たかが猪木の引退試合にやってくるはずがない。(中略)アリが真の戦いの中で数々の奇跡を行ってきたのに対して、猪木はあらかじめ勝敗が決められた偽物の戦いの中で幻想を生み出したにすぎないのだ。(中略)しかし、多くのファンの自虐的な予想を裏切って、モハメッド・アリは東京ドームに現れた。それだけではない。ドームの左中間フェンスに据えられた聖火台に点火したのだ。
アトランタ・オリンピックで世界中を感動させた聖火点灯のパロディをモハメッド・アリ自らが演じる。ため息が出るほどくだらない演出である。だがこの役をアリは嬉々として引き受けた。その理由はひとつしか考えられない。アリはプロレスのバカバカしさが大好きなのだ」

あまりに面白かったので長文引用。猪木も猪木なら、アリもアリな素敵すぎる名言なのだ。著者の柳澤氏は事実を事実の通りストレート書きすぎているが、プロレスファンとしては猪木とアリはお互いをビジネスパートナーと思っていた・・・・・・と思いたい。

アントニオ猪木の名言19『1976年のアントニオ猪木』・280ページ

アントニオ猪木の名言「猪木さんは冗談で『高橋、ゆっくりしてこい。なんだったらこっちに住んでもいいんだぞ』と笑ってたけど、『ふざけんな』と思ったね。自分だけさっさと帰って」

韓国のジャイアント馬場ことパク・ソンナンとの試合、猪木が負けるはずの試合がリアルファイトとなり、猪木はパクの目に指を入れるという暴挙に出る。翌日の再戦も猪木は負けを受け入れず、試合後、大暴動が起こる。猪木はさっさと日本へ逃げ帰るが、韓国に残された人間は地獄だ。

アントニオ猪木の名言20『1976年のアントニオ猪木』・294ページ

アントニオ猪木の名言「モハメッド・アリやパク・ソンナンとの試合では自分からリアルファイトを仕掛けた猪木が、今度は仕掛けられる側に回った。因果応報である」

モハメッド・アリと戦ったことで、猪木は好条件でパキスタンで試合をすることが決定。対戦相手はレスラー一家のボル・ブラザーズの五男アクラム・ペールワンだ。猪木は当然プロレスをするつもりであったが、試合開始直前にリアルファイトを行うことを告げられてしまう。動揺を隠せない猪木であったが、覚悟を決めてリングに上ったのだった。いつなんどき誰の挑戦でも受ける!を有言実行。

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アントニオ猪木の名言21『1976年のアントニオ猪木』・313ページ

アントニオ猪木の名言「遙かなる異国で、試合開始30分前にリアルファイトを告げられたアントニオ猪木は、リング中央で地元のヒーローの目に平然と指を突っ込んだ。しかも相手コーナーから見えず、テレビカメラからも死角となる位置を慎重に選んで」

アクラム・ペールワンは、パク・ソンナンに続き二人目の猪木の目突きの被害者となってしまった。格闘技では目突きが反則なのは当たり前のわけで、それを平然とやってのける猪木の精神構造というのはキチガイのレベル。しかもそれを敵地でやってしまうのだからぶっ飛んでいる。

アントニオ猪木の名言22『1976年のアントニオ猪木』・338ページ

アントニオ猪木の名言「猪木は、『新日本プロレスはもはや全日本プロレスを相手にしていない。喧嘩の相手はプロ野球であり大相撲だ。(それらを上回ることが)プロレスがメジャーなプロスポーツへと飛躍するポイントとなるのだ』と豪語した」

新日本プロレスはWWWFと契約したことでアメリカから一流レスラーを招聘できるようになり、さらに、真の天才である佐山聡・タイガーマスクの登場で人気は大爆発、新日本プロレスは一挙に世界一のプロレス団体にまで伸し上がった。猪木はとうとう馬場超えを達成。

アントニオ猪木の名言23『1976年のアントニオ猪木』・352ページ

アントニオ猪木の名言「猪木の借金は15億円に膨らみ、誰もがベストパートナーと羨んだ倍賞美津子は離婚届を置いて娘と共に去った。猪木は絶望の淵にいた」

80年代前半、栄華を極めた新日本プロレスであったが、猪木が飼料会社アントンハイセルを立ち上げ、売り上げのほとんどがそれに食われることに。そのため、レスラーの離脱が相次ぎ、売り上げは激減。しかし、借金は膨らむいっぽうで、とうとうミッコまで・・・・・・。

アントニオ猪木の名言24『1976年のアントニオ猪木』・354ページ

アントニオ猪木の名言「衰えの著しい猪木は既に新日本プロレスのお荷物でしかなく、大借金を背負う猪木が社長では、いつ会社の金を持ち出されるかわからない。国会議員でも何でもいい。新日本プロレスからいなくなってくれさえすればいい」

猪木が国会議員を目指すと宣言すると、新日本プロレスの全員が両手を上げて喜んだというから悲しすぎる。アリとリアルファイトで戦った偉大なるレスラー猪木の成れの果てである。足元を見れば、猪木は「国会に卍固め、消費税に延髄切り」などと言っている場合ではなかったようだ。

アントニオ猪木の名言25『1976年のアントニオ猪木』・365ページ

アントニオ猪木の名言「かつて韓国とパキスタンのプロレスを崩壊に追い込んだアントニオ猪木は、自ら築き上げ、君臨し続けた巨大なる新日本プロレス帝国をも完全に破壊してしまった」

日本に格闘技ブームが訪れると、猪木は総合格闘技の始祖と祭り上げられ、様々なイベントに引っ張りダコとなる。しかし、調子に乗った猪木は興行主催し見事に失敗。借金もかさみ、新日本プロレスの全株式を売却することに。猪木は自ら故郷を捨ててしまったのだ。あ~あ。

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アントニオ猪木の名言26『1976年のアントニオ猪木』・386~387ページ

アントニオ猪木の名言「日本のプロレスファンがヒクソンおよびグレイシー一族を憎む理由はひとつしかない。『プロレスは最強の格闘技である』という幻想を否定されたからだ。日本人はあまりにも深くアントニオ猪木を愛し、猪木が生み出した幻想を愛した。愛したからこそ、プロレスの敗北を認められなかった」

1993年にUFCが誕生すると、UWF系レスラーは必然的に真剣勝負の世界に進出。しかし、その多くはグレイシー一族を始めとした外国の選手たちに返り討ちに遭い、プロレス最強神話は失墜した。UFCを始めとしたMMA支持層のほとんどがプロレスファンだったため、日本の格闘技をブラッシュアップして戦っているにも関わらず、グレイシー一族はトップヒールとなってしまった。ま、プロレスラー=ベビーフェイス、グレイシー=ヒール、という見方自体プロレス的なんですけどね。

アントニオ猪木の名言27『1976年のアントニオ猪木』・394~395ページ

アントニオ猪木の名言「もしも“1976年のアントニオ猪木”がなければ、すなわち猪木がプロレスから逸脱することがなければ、異種格闘技戦もUWFも存在せず、その結果、総合格闘技が日本において巨大な人気を獲得することは決してなかっただろう。私たちは今なお、1976年にアントニオ猪木が作り出した世界観の中に住んでいるのだ。
(中略)巨大なる幻想を現出させ、観客の興奮を生み出すのがプロレスラーならば、アントニオ猪木こそが世界最高のプロレスラーであった」

アントニオ猪木は、力道山とジャイアント馬場を超えるため、プロレスラーには本来不要な強さを身に付け、そして、その強さを担保に新日本プロレス帝国を築いていった。そびえ立つ権力に、猪木が抗い、憤り、狂う姿は魔性の魅力があり、いつしか猪木こそが強さの象徴となり、新日本プロレスこそが最強の格闘技であるという幻想が創り出されたのだった。プロレスは欧米で作られたものだが、日本の格闘文化は完全にアントニオ猪木が創ったジャンルなのだ。これにて「1976年のアントニオ猪木」から引用した、アントニオ猪木の名言2は完。もしこの名著をまだ読んでいないのなら、絶対に一読することをおすすめする。読んで損は絶対にない一冊だ。

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