世界タイトル13度の防衛、日本人では具志堅用高以外誰も成し得ていない前人未到の防衛記録。日本ボクシング至上最高選手の呼び声も高いのも非常にうなづける偉大な記録だ。
現在テレビで見せる姿は、天然ボケの人の良さそうなおじさんという印象であるが、数十年前の氏は“カンムリワシ”と称される獰猛なファイターだった。具志堅用高の偉大さを再確認するために、ナンバー別冊『拳の記憶』に収録されたインタビューから、具志堅用高の名言をピックアップしてみた。
具志堅用高の名言1
「スポーツは足が基本。ボクシングでも一番大事なのは足、それも親指」
自身の強さの秘訣を語った名言。中学生の頃、サトウキビを収穫するアルバイトで、足腰を鍛え抜いたんだとか。マニー・パッキャオも子供の頃、マグロの解体工場で足腰を鍛えた過去があり、具志堅氏は「わたしと似てるんだよ」と証言。強いボクサーは親指力が半端ないってこと。
具志堅用高の名言2
「お腹がすいたらグアバの実を採ったり、畑でパイナップルやスイカを盗んで食べたりね。のどが渇いたら、川の水を飲んでた」
具志堅用高の野性味溢れる人間性を感じられる名言。野を駆け山を登り、腹が減ったら自然から調達する、こういった子供の頃に貧しかった記憶であるハングリー精神が、現役時代の具志堅用高の強さのひとつだった、といえば言いすぎ?
具志堅用高の名言3
「『ヤエヤマバジル』って、八重山諸島から来た人間を悪くいう表現があった。でも、じっと怒りを腹の底にためて我慢したね。(中略)ボクシングを始めてからはそのエネルギーを拳にぶつけたから、2年でインターハイ準優勝、3年のときに優勝できたんだ」
沖縄本島は八重山諸島に比べ大都会であり、八重山出身者は少なからず差別を受けてしまう風潮が、具志堅用高の青年当時はあったようだ。しかし、その怒りのエネルギーを間違った方向で発散するのではなく、ボクシングの糧とした具志堅青年の健全な精神を賞賛したい。
具志堅用高の名言4
「空港に協栄のスタッフが迎えにきてたんだよ。拓大の人も来てくれたらしいんだけど、協栄のほうがほんの少し早かったんだ。そのままジムへ連れて行かれて記者会見が始まったからびっくりだよ」
高校卒業後、拓植大学へ進学が決まっていた具志堅氏であったが、空港で協栄関係者に連れ去られてしまうとは。この頃かららしさを発揮していたなんて・・・・・・。結果としてはプロで大成功をおさめるのであるが、アマチュアに進めばもしかしてオリンピックを・・・・・・。
具志堅用高の名言5
「120%沖縄のため、石垣島のために戦った。でも、ベルトを巻いたとき、覚えていたのは拳の感触だけなんだね」
当時一番軽い階級が50.8kg以下のフライ級で、通常体重が46kg程度しかない具志堅用高はプロでの活躍を断念。しかし、48.9kg以下のジュニアフライ級が新設され、デビュー9戦目、王者のファン・グスマンに挑戦し見事7回KO勝ち。世界戦は沖縄を背負って戦ったと具志堅氏は言うが、拳の感触しか記憶にないなんてかっこよすぎだ。まさに『拳の記憶』!
具志堅用高の名言6
「当時はまだ本土との間にはっきりとした線がひかれてた。沖縄出身だとわかると、まわりの空気が変わったもの。自分が負けたら、あれほど喜んでくれた沖縄の人たちに申し訳ない」
実に13回も防衛できたモチベーションを語った具志堅用高の名言。家族のために石垣島に家を建てたいというモチベーションとともに、沖縄の人たちのステータスを上げたという思いが一番のモチベーションだったのだ。だからこそ、普段は温和な具志堅氏が試合になると、カンムリワシと称されるほどの獰猛なファイトを見せたのだろう。
具志堅用高の名言7
「わたしのボクシングは沖縄で始まって、沖縄で終わったって感じだよね」
14度目の防衛戦を沖縄で行うも防衛に失敗。12R、タオル投入によりTKO負けで挑戦者のペドロ・フローレスに王座を受け渡すこととなった。具志堅はこの敗北でプロボクシングを引退。後進に道を譲ることを選択するのだった。
具志堅用高の名言8
「うれしかったのは、石垣島の市民栄誉賞をもらったとき。あれはうれしかったな。うん、一番うれしかった」
15度王座を防衛したら国民栄誉賞の受賞も噂された具志堅氏だったが、氏はそんなに欲しいとは思っていなかったそうだ。それよりも、石垣市から贈られた栄誉賞が何よりも嬉しかったというのは、沖縄、石垣島を背負って戦い続けていたからだろう。いかにも具志堅用高らしい。そして、この名言で具志堅用高の名言、完!
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